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【日本のまちづくり成功事例】小樽市|衰退地域が運河再生で有名観光地に!歴史でまちを活性化!

日本を代表する観光都市「小樽」!

ちゃぼけん

あなたも観光をしに一度は訪れたことがあるのではないでしょうか?

私も高校生のときの修学旅行で訪れて以来、
北海道に仕事があるときなど何度か足を運んでいます。

多くの人を魅了する小樽市ですが、
有名な観光地になるまでには、大変な苦労がありました

今回はそんな小樽市の歴史まちづくりを紹介していきます!

小樽市ってどんなところ?

小樽市は北海道の西海岸のほぼ中央に位置し、
札幌市などと面しているため空港からのアクセスがとても良く
一年中、観光客が絶えません。

海に面しているため海産物も豊富で美味しい食べ物がたくさん楽しめます。
市内には多くの寿司屋があり、「寿司のまち」としても有名です。

また、三方が山に面しており地形の起伏が激しく坂が多く、
小樽市は「坂のまち」とも言われており、
天狗山からの夜景は、北海道三大夜景にも選ばれています。

スキーや温泉、水族館、グルメなどあらゆるものを楽しめる小樽市ですが、
最も有名な観光地はなんと言っても小樽運河でしょう!

しかし、
この小樽運河は消滅の危機があったのはご存じでしょうか?

小樽市で最も有名な観光地は、地域の人々の努力によって、
今日まで守り継がれてきたのです。

小樽市の歴史まちづくり

ここからは、小樽運河のまちづくりについて紹介していきます。

まさに小樽市の顔!小樽運河とは?

小樽運河は、港湾都市小樽の歴史を物語る重要な文化財です。

小樽運河は港町小樽の港湾施設として、
長らく港湾荷役の重要な役割を担ってきました。

戦後になり港の物流が道路交通に取って代わられると、
小樽運河は衰退の一途をたどりました。

しかし、現在では、土木遺産として再生され、
運河とその周辺の織りなす歴史的まちなみ景観は、
観光客を惹きつける観光資源になっています。

消滅の危機にあった!小樽運河のまちづくりの歴史

それでは、小樽運河のまちづくりの歴史を見てきましょう!

港湾都市として発展した小樽

明治時代に小樽は大きな発展を遂げました!

北海道の開発は、明治政府の重点政策の一つで、
1869(明治2)年に札幌に開拓使が設置されました。

これに伴ってニシン漁の漁港に過ぎなかった小樽は、
北海道開拓において海路・陸路交通の中継地の役割を担う港湾都市として、
発展が始まりました。

官営幌内炭鉱が生産を始めると、
その搬出のために手宮(小樽)・札幌間を結ぶ
北海道で最初の鉄道が1882(明治15)年に開業されました。

小樽港は道内への輸送拠点としての役割とともに、
石炭の積み出し港の役割を担う輸出港としても重要な役割を担うことになりました。

自動車の発展とともに衰退する、港湾都市・小樽

戦後、石炭から石油へとエネルギーの転換が始まると、
石炭産業は斜陽への道のりをたどり、
石炭輸出を担ってきた小樽港の役割も低下しました。

樺太(サハリン)との交易港の役割を担ってきた小樽の荷役も戦後は激減し、
港湾都市小樽は急速に衰退への道をたどりました。

自動車交通の増加もあり、
1960年代には無用の長物となった小樽運河はドブと化し、
港湾都市小樽の衰退の象徴となりました。

小樽運河、埋め立ての危機!

一方、小樽市内の臨港地区では、
利用されずに放置された運河に並行する臨港道路では
増加する自動車交通により渋滞が激しくなり、
これを解消するために運河を埋め立てて、
隣接する倉庫群を撤去して用地を確保した拡幅道路が都市計画決定されました。

運河を守る市民運動が開始!

道路計画が発表されると、
地元を中心に運河を遺産として残し
周辺の歴史的建造物を含めた保存を望む市民活動が始まりました。

1973(昭和48)年には「小樽運河を守る会」が設立され、
開発か保存かという構図で以後10年以上にわたり、
関係者や組織を巻き込んで
多大なエネルギーを費やして議論が重ねられることになります。

最終的に決着したのが、道路拡幅のために、
延長650mの運河の幅の半分を埋め立て
道路2車線と、緑地帯、散策路、ポケットパークを整備する今日の形でした。

工事が開始されたのは1983(昭和58)年で、
同年には「小樽運河百人委員会」が結成されて、
運河保存のあり方について議論が継続されました。

運河の景観を守る条例の制定!

このような経緯を経て
1983年に小樽市は景観条例である
「小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例」を制定し、
市内の眺望・景観の重要性に対する市民の関心が高まりを見せ、
31棟の歴史的建造物が指定されました。

さらに1992年には
「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観条例」が制定され、
この条例は景観法策定後の2008年に全面改定に至ります。

歴史まちづくりにより、代表的な観光地へ

道路の拡幅工事が終了すると、運河周辺の民間資本による投資が活発となり、
運河をテコに、運河およびその周辺は小樽を代表する観光地になりました。

1985年からの5ヵ年で小樽市内への観光入込数は
124万人からほぼ倍増する234万人に増加しました。

小樽市がたどった十数年の対立、摩擦、議論を経て得た歴史まちづくりの結果が、
運河幅を半減して道路を拡幅する現在の小樽運河でした。

運河の幅を狭めずにそのまま残すという選択肢もありましたが、
その場合、市内道路の交通確保に大きな支障があったはずで、
公益の面で失うものも多かったと思われます。

地域のアイデンティティをつくっている小樽運河

小樽運河における運河は、
港湾都市小樽の隆盛と衰退の記憶を伝える歴史的環境の要であり、
小樽のアイデンティティを創り出す重要な歴史的景観です。

幅が狭められたとはいえ、保全された歴史的景観は、
都市内交通路の確保とモニュメントの役割を果たしています。

現在の小樽運河は、1960年代から80年代にかけて、
その保存をめぐり地元の民間、各種団体、行政の間でたどり着いた結論であり、
保全か開発かをめぐる議論を経た歴史的環境の保全の事例として先駆的な存在です。

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