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田舎の冠婚葬祭はどうして派手なの?今も受け継がれる、地域特有の風習やしきたりとは?

冠婚葬祭には、
地域特有の風習があったり、独特なしきたりが受け継がれているところが、
まだまだたくさんあります!

ちゃぼけん

都会生まれ都会育ちの私にとって、
正直「そんなに派手にしなくても・・・」と思ってしまうほど、
ビックリするようなときも!

最近は結婚式にしても、お葬式にしても、
最小限の規模で、できるだけお金をかけずに済ますという方が増えてきています。

一方で、
今でも地域によっては
びっくりするほど豪華な冠婚葬祭を行っている地域や家庭ってありますよね。

見かける度に、「本当に凄いなー」といつも驚かされます!

でもいったいどうして、
田舎の冠婚葬祭はあんなにも派手なものがあるのでしょうか?

今回はそんな「冠婚葬祭の歴史」について解説しようと思います。

この記事を読むと、
昔の人がどのような気持ちで冠婚葬祭を行ってきたのかが、わかります。

あなたの持つ冠婚葬祭のイメージが変わるかもしれませんよ!

そもそも「冠婚葬祭」って何?

そもそも「冠婚葬祭」ってそれぞれ何を意味しているか、知っていますか?

冠婚葬祭は、「人生の節目に行う儀式」の総称です。

それぞれにはどんな意味があるのか、見ていきましょう!

「冠」の意味

「冠」は‟元服“の儀式を意味しています。

これは、今でいうところの‟成人式“です!

元服は、15歳頃に男子が成人になったことを祝う儀式であり、
昔はこれを機に一人前の大人としての扱いを受けるようになっていました。

「冠」という字は、この元服の儀式の際に、
冠を受け取っていた為、この字が使われるようになりました。

「婚」の意味

「婚」は、結婚に関わる儀式のことを指します。

結婚式はもちろん、披露宴や結納も含まれます。

明治時代ごろまでは、自宅結婚式が一般的に行われていました。

自宅結婚式では、
牧師や神父はもちろん、神主やお坊さんなどの、
宗教者が介在しない民間行事であり、
地域の人が自宅までやってきて、長い行列を組むことが特徴でした。

その後、都市部では、簡略に行える神前結婚が徐々に流行し、
神社での結婚式が増えました。

戦後には宗教に自由化が行われ、
今では当たり前となった教会やチャペルでの結婚式も一般的になっていきます。

「葬」の意味

「葬」は人が亡くなったときに行う儀式です。

葬式や通夜、告別式がこれに当たります。

現在の葬儀は、仏教による教えがその基本として営まれていますが、
仏教が我が国に伝えられる以前に存在した民間信仰や、
その土地土地による風習、風俗なども影響して現在の葬送儀礼が確立されました。

「祭」の意味

これが一番難しいかもしれませんね!

「祭」とは実は、先祖を祀る儀式のことです。

法事やお盆を指すことが多いですが、
季節行事のほとんどが「先祖を偲ぶ」ものであったことから、
あらゆる年中行事が「祭」に含まれます。

今も残る派手な冠婚葬祭

冠婚葬祭には、その地域の風習やしきたりが反映されることが多くあります。

そして、現代においても地域性が色濃く残っているものがたくさんあります。

ここでは、その一部をご紹介しましょう!

結婚式編

派手なイメージのある結婚式として有名なのが、
名古屋市などがある東海地方でしょう!

名古屋は「娘が3人いれば家が傾く」と言われているほど、派手婚として有名です。

しかし、
実際に名古屋の結婚式は特別お金がかかっているわけではなく、
婚儀の一部である「結納式」が華やかだったと言われています。

→結納式とは?

では、いったいなぜ名古屋の結納式は華やかになったのでしょうか?

名古屋といえば「徳川家康」。

徳川に嫁ぐために娘に豪華な結納品を持たせたことが、
豪華な結納式の始まりだと言われています。

それ以来、
名古屋では結婚の際に、豪華な結納品を持たせることが習慣となりました。

今では豪華な嫁入り道具とともに嫁ぐ人は減少傾向にありますが、
その習慣が今の華やかな結納式や結婚式に繋がっています。

名古屋ならではの結婚式の風習としては、
たくさんの嫁入り道具を乗せて、新婦の家から新郎の家に運ぶ「嫁入りトラック」
新婦の家の屋根から近所の人へお菓子をまく「菓子まき」などがあります。

名古屋に負けず劣らずの結婚式が行われているのは、
福井県をはじめとした北陸地方です。

嫁入り道具の内容も目を見張るものがあり、
名古屋の「菓子撒き」と同じような「饅頭撒き」が行われます。

特に福井県の嶺北地方は伝統的な婚礼の儀式が残っていきました。

嶺北地方は「越後の国」と呼ばれ、
浄土真宗の信者が多く、
宗教行事や農作業を共に行う「講」という組織をもとにし、
近隣の結びつきが非常に強かったようです。

そのため、昭和30年頃までは派手な婚礼が一般的に行われていました。

その内容は、
婚家の近隣の人に挨拶をしつつ、
婚家に入り先祖の仏壇に参った後、
地元の氏神の前で神前挙式をし、
その後、親戚や近隣の人を招いて自宅で披露宴を行っていました。

披露宴も4~5時間程度は当たり前で、
中には6時間以上もかけ、夜が更けるまで行うことが多かったようです。

今ではそのようなスタイルの婚礼を行うところも少なくなっていますが、
その豪華な婚礼の名残が、
一部の婚礼の儀式や、結婚式での食事が引き出物の豪華さとして残っています。

お葬式編

一方、葬式に関しても地方によっては盛大に行われているところがありました。

一番有名なものは「野辺送り」でしょう。
野辺送りとは、
故人を斎場から火葬場へ送り出すことを言いますが、
かつては村や町全体で葬列をつくり、故人の棺を送り出す儀式でした。

神道では、遺体には穢れがついているとされており、
穢れを日常に持ち込まないために、野辺送りが行われていました。

そのため、帰り道は死者が戻ってこないように、遠回りして帰っていました。
これは今でも霊柩車が行きと帰りで違う道を通る風習として残っています。

その他にも、
葬儀の後に鳩を放つ儀式を行う地域や、
出棺時に打楽器を鳴らす風習がある地域、
栃木県の一部の地域では「花籠振り」という風習が残っています。

現在では、
死を迎える場所が家ではなく、病院であることが一般的であり、
葬式が行われる場所も自宅ではなく、
専用の式場である葬儀場になってきています。

そのため、葬儀を執り行うのは、地域の互助組織から葬儀業者に変わってきています。

しかし、今でも地域全体で葬儀を執り行う地域もあり、
参列者が多い場合には、振舞われる料理や返礼品の数も多かったようです。

どうして冠婚葬祭は派手になったのか?

一昔前の冠婚葬祭は、地域みんなで行うのが一般的でした。

結婚式にしても葬式にしても自宅で行うのが当たり前で、
地域の人を呼んできて盛大に執り行うのが多かったようです。

どうして田舎の冠婚葬祭は盛大に行われるようになったのでしょうか?

それは、日本の家族形態や消費・生産の歴史と大きく関わりがあるのです。

江戸時代の農民の生活スタイル

今から600年ほど前の江戸時代では、人口の8割以上が農民でした。

江戸時代の農家は、
親子三代が同居する「直系家族」形態のもとで、
他から人を雇わずに、家族労働力のみで営む小農経営を基調にしていました。

日本の農家は長男単独相続を規範としていたので、
それに即して具体的に説明すれば、
親夫婦と子どものうち、跡取りとなる長男が妻を迎えて結婚すると、
その他の兄弟姉妹は親元を離れなくてはならず、
親夫婦と同居するのは長男夫婦だけとなります。

そして、長男夫婦に子どもが生まれれば、
親子孫の三世代が同居することになるわけです。

こうした農家家族は、
もちろん消費の単位でもありますが、
それ以上に、
農業という生産活動を行う経営体としての性格を色濃く持っています。

それゆえに、
家族メンバー間の関係も、
情緒的な関係というよりも、
経営体としての利害を共有しながら働くために、
家長を頂点とした権威的な関係
を結ぶことになります。

「倹約」という道徳規範

江戸時代においては、
このような農家の家系が一般的であり、
消費においても自給自足によるところが大きかったので、
そもそも生産労働と家事労働との区分が曖昧なうえ、
女性も当然のように農業生産に従事し複数のメンバーで分担していました。

さらに、子どもであっても、
もっぱら養育の対象となるわけではなく、
いわば「小さな大人」として家業を支える貴重な労働力とみなされていました。

広く生活に関わる価値観としては、
江戸時代の半ば以降、
勤勉と倹約を旨とする性格規律が、広く人々の規範となっていきました。

日本史研究では、この規範を「通俗道徳」と呼んでいます。

農民家族にとっては、
代々受け継いできた土地を守り、
家業を子々孫々まで継いでいくことが志向されており、
常に家の没落と背中合わせにある経済状況のなかでは、
倹約のレベルを超えた消費は、
ただちに奢侈とみなされ否定的に捉えられる傾向
にありました。

「ハレ」と「ケ」のメリハリ

「ハレ」と「ケ」という言葉はご存じでしょうか?

「ハレ(晴れ)」とは、儀式や祭り、年中行事などの‟非日常”を、
「ケ(褻)」とは、普段の生活である‟日常”を表しています。

民俗学でいう「ハレ」と「ケ」という世界観のなかで、
日々の暮らしと、儀礼・祭り・年中行事などが画然と区別され、
禁欲的で慎ましい「ケ」の領域と、
浪費的で放縦な「ハレ」の領域という二分法で捉えられる世界が広がっていました。

興味深いことに、
明治期以降に農業生産がそれなりの発展を遂げていく中にあって、
「伝統家族」の「ケ」の領域よりも「ハレ」の領域において、
消費活動を活発にしていきました。

日々の衣食住はそれほど変わらないのに、
たとえば結婚式はどんどん豪華になっていったことが知られています。

「ハレ」と「ケ」の価値感が逆転した現代

そうしたなかで、
第一次世界大戦(1914~18年)後になると、
通俗道徳的な生活規律や民俗的な世界観とは異質の、
全く新しい生活像が欧米から持ち込まれて、
都市の新中間層の人々の間に広がっていきました。

衛生・栄養・健康・能率・科学などに基礎を置く「合理的」な生活像と、
美容・流行・娯楽に関わる「享楽的」な生活文化です。

いずれも現在の目から見れば、何の変哲もない価値観ですが、
これらが消費と結び付けられ、
日々の暮らしを豊かなものにしていくことが、
肯定的に受け止められるようになっていったのです。

一昔前の日本では、
地域の結びつきの強さや、
家族と宗教との関係の強さから、
冠婚葬祭がハレの儀式として盛大に行われてきた歴史がありました。

しかし現代は、
生活スタイルの変化とともに「消費文化」が定着しており、
冠婚葬祭も個々の家族が消費するものとなっていきました。

そのため、
冠婚葬祭にはできるだけお金を使わずに
こじんまりとした規模で行う家庭が増えてきいるのです。

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