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日本のまちが「つまらない」理由は、開発による「均質化」と「個性の消失」!

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ちゃぼけん

日本のまちは、どこも同じように見えませんか?

主要な駅の前には、だだっ広い道路が通り、大きく四角い街区の中に中高層のビルやマンションがそびえ建っています。
そして足元にある商店はコンビニやチェーン店ばかり・・・

一方郊外には、巨大なショッピングセンターがあり、幹線道路沿いには四角い箱の商業施設と大きな駐車場が永遠と並んでいます。

あなたは「日本らしい風景」と言われて、どのような景色を思い浮かべますか?

いつの間にか、日本のまちは、どこも似たような風景となってしまい、個性や特徴がなく、つまらなくなってしましました

でもいったい、
どうしてそのようなことになってしまったのでしょうか?

今回はそのことについて考えていきたいと思います。

この記事をおススメする方
  • 自分にとって住みやすい場所を探している方
  • 幸せな暮ら方について日頃から考えている方
  • 将来の引っ越し先を検討しようとしている方
  • 「人気まちランキング」などに興味がある方
  • 風情があり人情味あふれるまちが好きな方
  • 地元のまちづくりに関わっている方 など

「まちの個性」とは何か?

あなたが住んでいる「まちの個性」とは何でしょうか?

そう聞かれて、即答できる方は少ないと思います。

「まち」は、多くの人が集まったことにより出来上がりました。
人が集まることで、「まち」にはモノが集まり、お金があつまり、情報が集まってきます。人は人のいるところに集まってくるのです。

まちに人が集まるのは、そこに刺激的な出会い」があるからです。

まちにはいろんな特性を持った人たちが集まり、そこは刺激に満ちた場所になります。
そのため、まちにはクリエイティブな仕事があり、学びがあり、遊びがあり、暮らしがあるのです。

そして、それぞれのまちには、それぞれの“個性”があります。

「まちの個性」は、そのまちの地形や風土などの『自然環境』と、その環境で暮らしてきた人たちの『営み』が、長い時間を経てそのまちの歴史や文化となって現れます。

「まちの個性」とは、世界中でそこにしかないただ唯一のものであり、暮らしている人々がそのまちに「愛着」や「誇り」を持てるものなのです。

そして、その「個性」はそのまち独特の風景を作り上げています。

「まちの個性」は、まちとそこに暮らす人々の生活が密接に結びつくことで生まれるものなのです。

大規模開発によって均質化するまち

ところが今、
長い歳月をかけて生まれてきた“まちの個性”が、
日本のあちこちで無くなりつつあります。

戦後、日本ではまちに人口が急激に増加したことを受け、大規模な不動産開発が次々に行われました。
それはまさに、そこにある自然や今あるまちを破壊しながら、新しいまちを作り上げていく行為です。

急激な人口増加をし続け、住む場所や働く場所が不足している、当時の日本のまちでは致し方ない行為だったでしょう。

いろんなものを犠牲にしながら、日本のまちはみるみる大きくなり、郊外には巨大なニュータウンが次々に建てられていきました。

しかし、
人口減少期にある現在においても
このような“破壊行為”は本当に必要なのでしょうか。

大規模開発は、利便性向上という名目で、今なお日本のあちこちで実施されています。このような大規模な開発には、主に「都心の再開発」と「地方の市街地拡張」があり、これらによりまちの均質化は今なお続いています。

まちを根こそぎ作り替える「都心の再開発」

「市街地再開発事業」や「土地区画整理事業」という言葉を見聞きしたことはないでしょうか?

これらの開発事業は、全国あらゆる場所で実施されており、それによりまちが均質化され、駅前などがどこも似たような風景になっています。

もちろん、それぞれは違うまちで実施さてていますが、完成予想図はどれも同じようなものばかりで、ほとんど区別がつきません。

今現在、全国でこんなふうに、どんどんまちが作り替えられています。
作り替えられた元のまちには、古くから地元に愛されてきた場所もたくさん含まれているのも関わらず・・・

数百億円を投じて実施される市街地再開発事業や土地区画整理事業は、規制緩和と税制優遇という行政の支援も受けながら、「まちをそっくり作り替えてしまう行為」です。

そして、更地にした後にできるのは、どこにでもあるような複合施設です。
真新しい人たちが住み、真新しい店が入ります。

そこにまちの歴史や文化を継承するという概念はほとんどありません

たとえば、駅前にあった昔ながらの店が立ち並ぶエリアを再開発する際、ほとんどの店は、新しいビルの商業フロアに入居することができません

今の何倍もする賃料を、小さな事業者である店舗経営者が、負担するにはあまりにも額が大きすぎるからです。
もとよりビルが完成するまでの数年間、休業するわけにはいかないでしょう。

このようなまちを根こそぎ作り替える行為には、反対する地域住民も多いと聞きます。
しかし、そのような声は、聞き入れられることなく事業は粛々と進んでいきます。

再開発事業や土地区画整理事業は、「地権者」「不動産デベロッパー」「都市計画コンサルタント」の3者が考えた事業計画を、行政が承認するという形で進められます。

この三者に地域住民は入っていません。

住民向けの説明会が開催されることがありますが、そこで地権者でもない地域住民から多くの反対意見が出されたところで後の祭り

いったん走り出した巨大計画が抜本的に見直されることはありません。

長年まちの興隆を支えてきたテナント店主や賃貸居住者が、基本的な計画の策定に口をはさむ余地も機会もほとんどないのが実態なのです。

ましてや、古くからある店の利用者や外からの来訪者の声などは、完全に蚊帳の外と言っていいでしょう。

今なお拡大し続ける「地方都市の郊外」

郊外の道路を車で走ると、どのまちも同じ風景が広がっているのがわかります。
日本中どこも同じ!

イメージする風景は、一見、非常にきれいに見えますが、現実には広いバイパス沿いに巨大な店舗・商業施設が並ぶ、けばけばしい場所が多いです。
いわゆる「ロードサイドの風景」

このロードサイドの景観は、いかにもつまらないと思いませんか?

どうしてこのような風景ばかりになってしまったのでしょうか?

1974年施行の大店法によって、大規模な商業施設が街なかに立地することができなくなりました。
それは既存店舗の競合となる大型店舗を街なかから排除するものでしたが、結果的にそれが導いたのは商業空間の郊外化でした。

安い郊外の土地に巨大なショッピングセンターがつくられ、顧客を丸ごと奪っていく
投資効率が良いため、大資本は矢継ぎ早に売り場面積を増やしていきました。

一方、数多くの個人商店の集合体である中心市街地の商店街は、変化に対する意思決定が否応なく遅れます。

さらに、高止まりしている土地の値段や賃料も変化を抑制し、商業の中心は瞬く間に街から郊外へと移行しました。

さらに、行政も市街地が外へ外へと広がっていくことを許容しました。
いや、促進した、と言ったほうがよいかもしれません。

本来なら、市街地化調整区域や農地として新たに開発しないエリアでも、次々に用途地域を変更し、宅地や商業を誘致しました。

都市はダラダラと広がり続け、結果的にできたのが、
均質で密度の薄い、あの郊外の風景です。

日本のまちは外へ外へと広がっていくことを選択し、その動きはいまだに止まっていません。

フォーマット化された日本の開発

なぜ、このような開発によりまちの個性が失い、画一的になってしまうのか?

実は、国が作ったフォーマットがあるからです。
そのフォーマットを、都道府県、市町村が全部コピー・アンド・ペーストしているため、似たようなまちの風景になるというわけです。

みんなで進めるまちづくりの話-国土交通省 (mlit.go.jp)

道路が複雑に入り組み、木造の住宅がひしめき合って、駅があって・・・という従前のまちには、いざ再開発となると、まず車を通すために、道路の幅が広がります。
そして、狭い道路た道路脇に建っていた木造住宅は、全部潰されます。

その後には、広い区画が生まれ、駅前が拡大し、住宅は「上に」積み上がります。
高層マンション化です。

これを「良好な都市型住宅の供給」という題目で国がフォーマット化しているため、すべての再開発がこうなってしまう、というわけです。

もちろん、どのような状態が“良好”かは人によって意見が分かれますが、少なくとも国としては、この方法によってまちが良好になっていると信じて疑いません。

“個性”が失われていく日本のまち

まちをそっくり作り替えてしまう「大規模再開発」や、ロードサイドの風景を量産させる地方都市の「市街地の拡張」は、まちの歴史や文化を継承するものではなく、そのまちと今までの人の暮らしを分離させ、まちの個性を消失させる行為に他なりません。

「安全性」「利便性」「効率性」を盾に、そのまちらしさはどんどんと奪われてしまうのです。

そして、失われたまちは、二度と元には戻りません

このようなことが、大多数の住民に知られることなく、次々に進んでいってしまうのです。

近年、日本のまちは金太郎飴のように“どこも同じような顔”をしています。
均質化したまちには個性を感じられるものが何もありません

これが日本のまちがつまらなくなってしまった主要因と言えるでしょう。

「キレイ」と「美しい」の違い

突然ですが、あなたは『キレイ』と『美しい』の違いはわかりますか?

『キレイ』「形や色が整っていて見た目が良いこと」であり、「清潔である」とか「整然としている」という意味もあります。英語でいうと「clear(クリア)」や「clean(クリーン)」にあたります。
一方『美しい』「形や色の調和が取れていて心惹かれること」であり、英語の「beautiful(ビューティフル)」や「pretty(プリティ)」にあたります。

「心惹かれる」かどうかが一番大きな違いとも言えますね。

すなわち『キレイな部屋』とは「掃除が行き届いている部屋」とか「整理整頓されている部屋」という意味になりますが、『美しい部屋』とは「レイアウトが素晴らしい部屋」とか「飾り付けが見事な部屋」ということです。

これは「まち」にも言えることであり、
「キレイなまち」と「美しいまち」では一見同じようですが、大きく違うのです。

確かに、以前のあったまちを根こそぎ排除し、まったく新しいまちをつくってしまう大規模開発によって、そのエリアは「キレイ」になるかもしれません。

しかし、そのような真っ白に塗りつぶされたまちには、今までそこにあった人々の暮らしや息づかい、文化や歴史がまったく感じられません

前述したように、人がまちに魅力を感じるのは、そこに「刺激的な出会い」があるためです。

人々の暮らしが感じられない「キレイ」なまちには、まちとしての魅力が感じられず心惹かれることはないでしょう

「キレイ」と「美しい」は違います!

無機質でキレイな空間ではなく、歴史や文化があり、人間味が感じられる温かな空間に、人々は「美しさ」と「魅力」を感じるのです。

世界から取り残された、日本のまちづくり

自動車が速く走れるように、広くて真っ直ぐなできるだけ信号のない道路を通す。
街区は巨大になり、そこに住宅を超高層に積み上げる。
残った敷地に広い緑地・広い公園をつくる。

まちはこんなふうに造るべきである。
これが現代の日本における「フォーマット化された開発」そのものです。

しかし実は、このようなまちの作り方は100年以上も前に欧米でもてはやされたものでした。

そこから、欧米の都市計画は方向転換を行いました。
「まち」という場所の本質に気がつき、合理性や機能性を重んじる、自動車中心の近代都市計画にサヨナラを告げたのです!

まちの本質・・・
それは「お互いよく知らない人間同士の緩やかな関係性」でした。

「自動車中心のまちづくり」ではなく、
「人間中心のまちづくり」のはじまりです。

しかし、欧米が都市計画を方向転換し始めたころに、日本は自動車型のまちをせっせと造り始め、その方向性は現代の市街地再生のための開発事業でも踏襲されています。

2000年以降に増加した、都心部のタワーマンション建設や、郊外の巨大なショッピングモールの周囲に住宅団地という都市計画は、形は違って見えるかもしれませんが、思想は全く同じ!

「道路は広く、区画は大きく、用途は区分して」
というのが典型的なまちの骨格なのです。

実際にそのようなところの道路を歩いてみると、都心も郊外も同じ思想で造られているということが実感できます。

どこを歩いても、目線の高さでは同じような風景であることに気づくと思います。

車のための真っ直ぐの広い道を通して、大きな広い区画をとって、建物を高層化させていく。余った場所に木を植える。まったく同じ手法です。

この歩道が都市計画の言う快適な歩道空間になりますが、車のために作られた道の添え物に過ぎません。
延々と真っ直ぐで曲がり角もない歩道には、沿道に商店や飲食店は1つもありません

ジョギングにはいいのかもしれませんが、そぞろ歩きには非常に退屈です。

都心の高層マンションであれ、郊外の住宅団地であれ、日本ではこういった同じようなまちが、今現在もどんどんと量産されています

地方都市の中心部でも同じフォーマットでマンションが建っています。
同様に郊外住宅地もどこも同じような顔をしています。
さらに、都心と郊外も、歩行者目線で見れば基本的には骨格は似たようなものになります。

今日本中で進む都市の均質化は、およそ百年前の思想を基にした日本の都市計画の後進性がつくりだしたものなのです!

まちの“個性”を取り戻そう!

焼畑農業的な不動産開発によってまちの個性が失われ均質化していく流れを、簡単に受け入れてしまってよいのでしょうか?

都市計画は、
そこに生きる(=まちをつかう)人間を中心に考えるべきです。

日本は今、人口減少・高齢化という新たな局面を迎え、その方針や価値観を転換する必要に迫られています
しかし、人口増加を前提とした都市政策及び計画が、今なお惰性的に進んでいるのもまた事実なのです。

一方で、防災性・効率性・都市間競争・経済活性化などの「正しさ」を盾に、どんどんと均質化されていくまちの風景には、多くの人が違和感を覚え、薄っぺらなショッピングモールの退屈さに気づき始めています

そんな状況に対するカウンターとして、都市に対する新しい価値観や新しいライフスタイルを求める萌芽は、ここ数年でよく見られます。

まずは、まちに出て、まちで人と会いましょう。

想像力と五感を駆使して都市を楽しみましょう。

そして、まちで幸せになりましょう。

あなたは自分が住んでいるまちで、本当に「やりたいこと」を実現できていますか?

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