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日本社会はなぜ「生きづらい」の?多くの人が孤立する『コミュニティ』と『人間関係』の問題とは?

ちゃぼけん

あなたは日本に住んでいて、「生きづらい」と思ったことはないでしょうか?

いじめ問題、自殺者や孤独死・過労死する人の増加、格差社会の増大、社会的弱者やマイノリティへの無関心、社会的排除、同調圧力・・・

このように、
日本社会には「生きづらい」を感じる要因がたくさん存在しており、
そして、これらが近年表面化してきたことによって、
多方面で問題視されるようになっています。

物質的にも経済的にも恵まれたこの国で、
生活満足度は年々減少しており、
さらに約6割のの人が「生きづらい」と感じている、
なんてデータがあります。

なぜこんなにも多くの人が「生きづらい」と感じているのでしょうか?

そこには、
日本特有の『コミュニティ』や『人間関係』に原因があるかもしれません!

今回は、日本社会が「生きづらい」と言われている理由について、解説します。

先進国の中で「幸福度」が最も低い日本!

2023年3月20日に「世界幸福度ランキング」が発表され、
日本の順位は137カ国中47位でした。

これは前年(146カ国中54位)よりも上昇しているものの、
未だに先進国の中では最低の結果となっています。

世界幸福度ランキング

もちろん、日本が特別、
他の国と比べて恵まれていない、というわけではもちろんありません!

その証拠に、
「一人当たりの国内総生産(GDP)」「健康寿命」
他の国と比較して
同程度もしくは上回る結果となっているのです。

ではいったい、
国内で紛争が起きているわけでもなく、
経済的に豊かで、
平均寿命も長い日本において、
これほどまでに「幸福度が低い」という、残念な結果となっているのでしょうか?

注目すべきところは、
日本の評価結果の、とりわけ低い項目・・・
それは「寛容さ(他者への寛大さ)」です!

「寛容さが低い」ということは、すなわち、
社会が「異質なものは受け入れない」
または「多様性を認めない」ということです。

そのため、日本社会では、
自分が異質なものとして、周りから排除されないよう、
皆が必死になって空気を読まないといけなくなり、
それが息苦しさを感じる要因となっているのです。

日本は「社会的孤立」しやすい国!

日本では毎年2万人以上が自殺しています。
特に最近はコロナ禍の影響があり、その数は増加傾向にあります。

「令和4年度中における自殺の状況-(厚生労働省)」

さらに、日本では、若い世代の自殺者数が多く、
15~39歳の死因のトップが「自殺」であるのは、
G7の中でなんと日本だけです!

そして、「孤独死」も近年、急激に増えています。
驚くことに、孤独死は高齢者に限ったことではなく、
実は20~50代が全体の約4~5割を占めているのです。

孤独死の現状を統計から分析

こうしたことの根本的な背景にも、
人と人との「関係性」のあり方、
そして「コミュニティ」のあり方ということが
何らかの形で働いていると考えられます。

実際、OECD(経済協力開発機構)の報告書では、
国際的に見て
日本はもっとも「社会的孤立」度の高い国であるとされているのです。

この場合「社会的孤立」とは、
家族以外の者と交流やつながりがどのくらいあるのか
という点に関わるもので、
日本社会は、
“自分の属するコミュニティないし集団の「ソト」の人との交流が少ない”
という点において
先進諸国の中で際立っているのです。

「ウチには過剰に気を遣い、ソトには無関心」な日本人

現在の日本の状況は、
「空気」といった言葉がよく使われることにも示されるように、
集団の内部では過剰なほど周りに気を遣ったり同調的な行動が求められている一方、
一歩その集団を離れると誰も助けてくれる人がいないといった、
「ウチとソト」との落差が大きな社会になっています。

このことは、
人類学者の中根千枝は著書『タテ社会の人間関係』(1967年)で
以下のように記述しています。

「『ウチ』『ソト』の意識が強く、この感覚が先鋭化してくると、まるで『ウチ』の者以外は人間ではなくなってしまうと思われるほどの極端な人間関係のコントラストが、同じ社会にみられるようになる。知らない人だったら、つき飛ばして席を獲得したその同じ人が、親しい知人(特に職場で自分より上の)に対しては、自分がどんなに疲れていても席を譲るといったような滑稽な姿が見られるのである。実際、日本人は仲間といっしょにグループでいるとき、他の人々の対して実に冷たい態度をとる。」

日本人には、
「知っているものどうし」、つまり“身内”における気遣いの、過剰なまでの濃密さと表裏一体の関係として、
「見知らむ者どうし」の関係の希薄さ、あるいはコミュニケーションの不在があるのです。

実際、ヨーロッパなどのカフェでは、
客の側から店に入ったときに店員に挨拶の言葉を掛けたり、
レストランで食事が運ばれてきたたきに「Thank you」に相当する言葉を言うのが自然なこととなっていますが、
日本の場合、そうしたことはごく限られたものになっており、
見知らぬ者同士が、
ちょっとしたことで声を掛け合ったり、挨拶をしたり会話を交わしたりすることがほとんど見られせん。

つまり日本人における人と人との関係のあり方の特徴として、
「“身内”あるいは同じ集団に属する者の間では、
過剰なほどの気遣いや同調性が強く支配する反面、
集団の『外』にいる人間に対しては、
無視か、潜在的な敵対関係が一般的となる」

ということが指摘できます。

学校などのいじめ問題などの根にある、
どこかの「グループ」に属し、
その集団の中でそれなりにうまく立ち振る舞っていかないと
やっていけないという風潮も、
いま述べている特徴と重なっています。

このことが、人々のストレスと不安を高め、
高い自殺率といったことも含めて、
生きづらさや閉塞感の根本的な背景になっていると考えられます。

日本は「内側に向かって閉じるコミュニティ」をつくる

では、どうして日本社会は
「ウチに過剰で、ソトに無関心」な状況となってしまうのでしょうか?

その背景として考えられるものとして、
日本社会が形成してきた「農村型コミュニティ」があります。

農村型コミュニティとは、
「日本のような比較的恵まれた自然環境において、稲作を中心とする、小規模の、かつきめ細やかな集団管理や共同作業、そして同調的行動が求められる集団で形成されるような人々の関係性のあり方」を指します。

こうした社会行動においては、
上記のような“身内”つまり顔見知りの集団の中での凝集度の高い行動様式や関係のあり方が求められると同時に、
それは外部との交渉の比較的少ない、その意味である種の閉鎖性をもった社会であり、
“外”の者に対する潜在的な排他性が伴います。

一方、「農村型コミュニティ」に相対するものとして
「都市型コミュニティ」というのもあります。

「都市型コミュニティ」は、
‟独立した個人と個人のつながり”ともいうべき関係のあり方を指し、
個人の独立性が強く、またそのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づくもので、個人間の一定の異質性を前提とするものです。

こうした「農村コミュニティ」と「都市型コミュニティ」という対比を行った場合、
日本社会(ないし日本人)において圧倒的に強いのが
前者(農村型コミュニティ)のような関係性のあり方であることは、
疑いの余地がありません。

「ムラ社会」「村八分」という言葉に表されているように、
日本社会は元来から閉鎖的なコミュニティの中で、
”うまくやっていく”ことが求められている
のです。

こうした社会構造の中で、
「集団が内側に向かって閉じる」という行動様式や関係性が、
そうした環境に適応的なものとして形成され定着してきたといえます。

“会社”という名の「ムラ社会」

では、人口の9割以上が都市に住んでいると言われている現在、
日本社会のコミュニティはどのようになっているのでしょうか?

まちに住んでいる人に
‟あなたの日々の生活のとって最も大きな意味を持つ集団は何か?”と問えば、
ほぼ確実に「勤務先の会社」と答えるでしょう。

それほどまでに、今の日本人にとって”会社”というコミュニティは
生活の上で重要な位置を占めています。

ただこの会社というコミュニティが少々厄介なのです!

都市化・産業化が進む以前の農村社会においては、
「生産」のコミュニティと「生活」のコミュニティが一致していました。

やがて高度成長期を中心とする急速な都市化・産業化の時代において、
両者は急速に‟分離“していくとともに、
「生産コミュニティ」としての‟会社”が圧倒的な優位
をしめるようになっていきました。

戦後の日本社会は、
一言でいえば「農村から都市への大移動」の歴史でしたが、
都市を移った日本人は、
(独立した個人と個人の繋がりという意味での)都市的な関係性を
築いていくかわりに、
「会社」そして「(核)家族」という、
いわば‟都市の中のムラ社会“ともいうべき、
閉鎖性の強いコミュニティを作っていきました。

しかし、
「この閉鎖的なコミュニティが日本の高度経済成長を支えていた」
と言っても過言ではありません!

戦後日本の場合、
「国を挙げての経済成長」という圧倒的な目標が、
日本人を束ねる‟求心力”として作用し、
それが「ニッポンというコミュニティ」の基本感覚として強く働いた
といえます。

同時にそれは、「会社」と「(核)家族」という
個別のコミュニティを何とか‟つなぐ”役割をも果たしました。

個々に会社や(核)家族が競争しその利益を追求することが、
パイ全体の拡大(=経済成長)につながり、
それがまた結果として個々の会社や家族の‟取り分”の拡大にも
つながるという好循環が存在していたからです。

経済成長という「パイの拡大」に向かってい互いに競争する中で
それなりの豊かさを実現してきた、
つまり、いわば“農村的な関係性を都市に持ち込む”ことを行いながら
ある時期まで一定の好循環を生み出していたのが戦後の日本社会でした。

しかし経済が成熟化し、そうした好循環の前提が崩れるとともに、
会社や家族のあり方が大きく流動化・多様化する現在のような時代においては、
それはかえって個人の孤立を招き、
「生きづらい」社会や関係性を生み出す基底的な背景になっています。

集団の内部では過剰な気遣いが求められる反面、
集団を一歩離れると何のつながりや“救いの手”もないような関係性のあり方が、
かえって人々の孤立や拘束感・不安を強め、
また様々な“生きづらさ”の源となっています。

こうして、
高度経済期を中心に日本人にとっての中心的なコミュニティであった
「会社」「家族」「ニッポンという(会社的)コミュニティ」とその関係構造は、
幸か不幸か、これまでのような形では存在しなくなっています。

現在の日本社会において
「コミュニティ」というテーマが大きく浮上する
基本的な背景のひとつはこれであり、
この点は同時に、
‟個人の社会的孤立“という状況とつながることになります。

今後、どのようなコミュニティが必要なのか?

では、今後、私たちにはどのようなコミュニティが必要なのでしょうか?

日本人の多くは、「会社」や「核家族」といった
閉じたコミュニティのみに帰属している人がほとんどです。
しかし、そうした人間関係だけに頼っていては、とても危険です!

なぜなら、
そこでトラブルが生じたときに、一気に‟社会的孤立”を招いてしまうからです。

現代の日本のような成熟した社会には、
“個人が独立しつつつながる”という、
真の意味での「都市的な関係性」を作っていくことがいま求められています。

そのためには、
「会社」や「核家族」以外の複数のコミュニティに
属することがとても重要になってくるのです。

例えばそれは、
地域のコミュニティ、
趣味のコミュニティ、
学習のコミュニティ、
非営利のコミュニティ
などです。

そしてそれらのコミュニティは、
内側に閉じたものではなく、
外部に開かれたものでなくてはなりません。

すなわち、いろんな人がいつでも接続することができ、
離脱したいときにいつでも離れられる、
自由度の高いコミュニティです。

それこそが、‟個人が独立しつつつながる”ということなのです。

日本にはまちなかに
「第三の居場所(サード・プレイス)」が少ないと言われています。

「第一の居場所」である‟家庭”や、
「第二の居場所」である‟会社”や‟学校”とは違った、
居心地の良いと思える場所を「第三の居場所」と呼ばれています。

「第三の居場所」は、義務や必要性に縛られるものではなく、
自分の心に従い、自ら進んで向かう場所である必要があります。
それは趣味や息抜きができる安らぐ場所であり、
自分らしくいられる場所なのです。

私は長年、この「第三の居場所(サード・プレイス」で
各地で地元の人たちと作りあげていくことを
ライフワークにしています。

このような場所が、まちなかにたくさんできることで、
日本のまちが「生きやすい」場所になってほしいと、
心から願っています!

あなたは、自分が住んでいるまちで本当に「やりたいこと」をできていますか?

↓↓↓やりたいことを実現させる具体的な方法は以下↓↓↓

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